ラフマニノフ3番合わせとカデンツァの話

11日の本番に向けて、昨日今日と合わせ練習に伺いました。大学3年のときに学内の協奏曲オーディションに持っていった思い出深い曲。結果ダメだったわけですが、まあ、今ふりかえってみるとさすがに当時の自分は青くて、この曲の持つ色々な表情に気づける余裕はあんまりなかったような気がします。

「すごい熱量の曲」「ロマンティック」そんな方向性で一心に弾きまくってたような。しかし実はもっと軽い部分、楽しい部分があってこそ情熱が生きる、みたいな作りの曲なのですね。第二楽章の後半のワルツ風の3拍子やら、第三楽章のスケルツァンドやら。あれから10年以上経った今、そういう部分もうまく活かせるようになっていると良いな、と思いながら弾いてます。

ちなみに第一楽章のカデンツァ、Ossiaとして書かれた方がよく「大カデンツァ」などと呼ばれ、なんとなくそっちの方が凄いんだろうという感じで受け止められています。Ossia選ぶ方がカッコいいんだ、みたいな。いやしかし、実際のところ演奏者はみんな単純に好きずきで選んでると思います。だってどっちにしても大変だし、そもそもカデンツァ以外も大変だし……。というかラフマニノフとしては「大筋さえ守ってくれれば好きにやってもいいのよ」くらいのつもりで書いてるんじゃないかという気もします。重要なのはあのカデンツァであのモチーフを聴かせておくこと。そして同じモチーフが3楽章のコーダでスネアドラムのリズムとともに驀進するとき、どのような対比を聴かせるか。第一楽章でどんな形で出しておくかによって、曲の締めくくりの印象、引いては曲全体の見え方までも、ある程度は変わってくるはずなのです(それと、カデンツァ後半の第一主題。あれをどう出すかということも、第一楽章のみを見たときはより大事かもしれない)。

そういう音楽の重要な位置にある部分で、かなり性格の異なるOssiaを書いてあるあたり、ラフマニノフは自分の曲の持つ(持ち得る)色合いの多彩さ、ピアニストの解釈やアイディア次第で幅広い変化を見せる懐の深さ、といったものを強く意識していたのだろうな、と思うのです。作曲者本人にも「あそこ良かったぞ」と言ってもらえるような演奏ができれば良いなぁ。

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