被爆二世、独学で音楽を学んだ全聾の天才作曲家と謳われた佐村河内守氏のほぼ全作品が、実際には桐朋学園大学の講師を勤める現代音楽作曲家・新垣隆氏の手になるものだった、という衝撃的な事件が世間を賑わせている。これに関連して、少し自分の思うところを書いておきたい。
メディアや音楽出版社のあり方、またはポリティカル・コレクトネスについての議論はほかに譲るとして、音楽そのものについての話になる。今回の事件はかなり根源的な問題まで浮き彫りにした、というのがもっぱらの認識のようだ。人は音楽にいったい何を聴き、何を根拠に評価しているのかということ。また純粋に音楽を聴くのはいかに難しいかということ。そんな問題についてだ。ここで私は、純粋に音楽を聴くことなど不可能であるのは当然として、そんなことを目指す必要さえない、という主張を述べたいと思う。
私が初めて佐村河内氏の名前を知ったのは昨年、おそらく例のNHKスペシャルが放送された直後のことだ。人づてに話を聞いて興味を持ち、ネットで検索してプロフィールやら言及する文章やらを読み、曲の断片を動画で視聴したと記憶している。そのとき強烈に残ったのは、まず違和感であった。
違和感というのは、その音楽のたたずまいとプロフィールや売り出し方とのあまりの乖離に対してである。端的に言ってその音楽は、丹精込めて仕上げられた工芸品のように思われた。真っ当にクラシック音楽の教育を受け、あらゆる作曲技法に長けた知性に優れる人間が、都度つど何らかの書法の制約を自らに課しながら書き上げたものだと「わかった」。今このようなことを書いても後出しだと言われるのはわかりきっているが、そう思ったのは事実で、おそらくクラシックを学んだ心ある人間の多くが直感できたはずだ(実際、私の知る音楽家の幾人かは今回の発覚に対して「やっぱり」といった感想を漏らしていた)。聴覚を失った後に真実の音に目覚め、それまでの楽曲を全て破棄した元ロック・ミュージシャンが、常に轟音の鳴り響く中で霊感の降臨を待って作り上げた物とは、到底考えられない。プロフィールのそれらの言葉には薄ら寒さすら覚えた。オエッ。売り出すためのストーリーを誰かが描いている。作曲家はそれに乗じて悪びれずにいるらしい。そんな構図を漠然と思い描いた。
私はそのとき、彼の音楽を嫌った。いや、嫌おうとしたのだ。彼が自らに課した書法の制約とは、泣ける音楽にするための――言い換えればマス・マーケットに届けるための――打算であったに違いないと想像した。売る気満々で書かれた、嘘にまみれた、いやらしいパッチワークなのだろうと想像した。そうして想像してみて結局、最初の印象に戻るのだった。怖気の走るようなまがい物にしては「丹精込めて仕上げられた」ものに聞こえる。真摯に音楽に向かわずしてこれが生み出せるのなら、随分な才能の持ち主なのだろう。その点だけは悔しいが認めざるを得ず、周りに評価を聞かれても曖昧なことを言うほかなかった。CDなんてもちろん買う気もしなかった。胡散臭い人間が胡散臭い売り出し方をしている、大量の嘘が混ぜ込まれた(はずの)曲が、聴いてみたら本当に見事な出来だった、なんてことになれば余計に悔しいし。そうそう、聴かなくたってわかる。きっと、聴いてて腹が立つような作品に違いない。あーあ、佐村河内守の曲なんて、嫌いだ。
――見たまえ、ここに「物語」によって音楽への好悪を左右される情けない人間の姿がある。しかも漠然と思い描いただけの、自分の脳内で生み出した勝手な物語によって認識を歪められているのだから世話がない。私だけがこんな情けないのか? ……いや、そうでもない……ですよね?
さて、話は変わるが、クラシックの演奏家にはある程度の「勉強」や「研究」が求められる(もしかすると、聴衆にも)。曲の形式について。その時代に共有されていた音楽上のイディオムについて。そして作曲家本人について。「この曲の作曲当時、彼は熱烈な恋をしていた」だの「この曲の作曲直前に娘を亡くした」だの、そんなことまで。時代によって、あるいは作曲家の個性によって、それらの外部的な研究成果と演奏をどういう態度で結びつけるべきかは変わってくるが、基本的には、知らないよりは知っていた方が良い、というのが普通の態度である。なるべく正しい情報を、多く知っているべきだ。その方が「この曲のここがこうなっているのはこういう理由に違いない」などという考察を深めやすくなるはずだからだ。外部の情報によって音楽への理解度が変わるなんて、当たり前の話である。作曲家が何らかの真実に到達したのだとして、演奏家や聴き手がそこにより近づくために、補助具となる情報を利用する。何も間違っていない。
――ここで「じゃあ人間以外が作った音楽があったとして」みたいな話についても書こうかと思ったが異様に長くなりそうなので割愛。
さて、今回の新垣氏の暴露についてである。これはもう、腑に落ちた。なるほど、あの音楽はそのようにして生まれたものだったのか、と納得がいった。これを知った上でなら、音楽を素直に聴ける気がしたのだ。なぜなら、少なくとも新垣氏は作品に嘘を混ぜていないとわかったから。「発注書」にある熱量を忠実に曲に盛り込もうとして、自らの持つ技術と能力を注ぎ込んであれを完成させたのだから。背後にあるより正しい情報を、「物語」を知ったからこそ、どのように工夫して書かれ、何が表現されているのか、よりよく理解しながら聴けると思った。
考えてみれば、あれらの音楽は現代に生まれた真の奇跡と言えるかもしれない。クラシック業界にある問題のひとつとして、能力のある作曲家は(多くの)演奏家が演奏したくなるような曲、聴衆が聴きたいような曲を書こうとしない、というのがある。そりゃそうなのだ。クラシックの作曲家というのは、少なくともオーケストラ楽器を用いた作曲については圧倒的な知識と技量を誇る。あらゆる技法を分析し自家薬籠中の物とできるような人が、過去の作品の焼き直し・パッチワークを作ることに甘んじて満足できるわけがない。感動的に盛り上げるための和声進行も知っている、恐怖を覚えさせるためのリズムも知っている、きらめきを感じさせるための管弦楽法も知っている。つまらない、つまらない。使い古された書法も聞き飽きた調性の世界もつまらない。面白いものを、自分だけの新しい音楽を書きたい。そういうわけだから、自分の作品として、あえて過去の語法に則ったスタイルの音楽を書く人間は、現代にはまずいない(そこからして胡散臭かったわけだ)。往年のクラシック作品みたいに聴いていて素直に心の動くような書法の音楽は、たとえば映画やアニメ、ゲームのBGMとして「発注」されない限り、なかなか生まれない。
新垣氏のような作曲技術に長けた人が自発的にあのようなタイプの作品を書くことは不可能だった。なぜロマン派~ペンデレツキ風、みたいな書法の制約を自ら課すのか、という問いに答えようがないからだ。自分はもっと面白いことができるはずなのに。しかし、発注書があれば話は別だ。なぜそんな制約を課すのかって? そういう発注だからだ! わかりやすい。書法のことを置いておいても、現代社会において80分の大交響曲が生まれるというのはまずありえない。交響曲に必要とされる精緻なスコアを書くための知性と、交響曲を書こうという誇大妄想的な動機がひとりの人間に同居するというのは相当に考え難い状態だからだ。
個人的には、こういうプロデューサーつきのスタイル、現代のクラシック業界の停滞を吹き飛ばすひとつの手段として広まっても良いんではないかとさえ思える。制約があってこそその枠内で創意工夫を凝らして良いものができることだってある。
佐村河内氏の誇大妄想的なアイディアを新垣氏が形にするという、この特異な状況下でしか生まれ得なかったあれら一連の楽曲とその魅力を、「全聾の作曲家が轟音の中で」云々よりよほど真実に近いだろうこの(小説より奇なる)物語とともに味わい、よりよく理解し、より正しく評価すること。それが、取りうる最も適切な態度ではないかと思う。
佐村河内氏の詐欺行為は断罪されるべきことだろう。しかし、週刊誌記事などを読む限り、「凄い曲を世の中に出してやろう」という強い意思だけは本物であったのだ、と感じられる。記者会見で新垣氏が述べた言葉が印象に残っている。その言葉だけで、この事件は悪いことばかりではなかったんだと思えた。彼はこう語っていた。
彼の情熱と私の情熱が、非常に共感しあえた時というのはあったと思っています。
新垣氏の「職業」作曲家ぶりに少しさみしさも感じましたが、
真実のストーリーは森下さんの指摘している処に存在していたのでしょう。
日本人が作曲した交響楽がここまで注目され多くの人に聴かれることは近年ありませんでした。
佐村河内氏の詐欺行為とは別に、稀有な功績と言えるのではないでしょうか。
コメントありがとうございます。
新垣さんにしても出版のあてもない80分の交響曲を単に身銭稼ぎのためと気軽に作ったわけではないと想像します。稀有な功績、まさに仰る通りですね。
ツイッターのリンクからお邪魔しました。
今までこの人の存在を知りませんでしたが、どういうわけかこのニュース
から目が離せなくなりました。
同時に報道中にTV等で流れる曲にはちょっと感動を覚えたりもしていました。
新垣さんの記者会見を見ても共感より違和感が多く余計嫌な気持ちに
なりましたが、こちらの記事で(音楽に疎い私ですが)この件に関してようやく
なるほどと思えるお話を拝見できました。
ありがとうございます。
どんな経緯であれ、音楽自体は人を騙してやろうといった意図とは無関係に書かれたものですから、そこに価値はあるはずだと思っています。
>佐村河内氏の誇大妄想的なアイディアを新垣氏が形にするという
という点・手法は問題なかったと思います。
一方で文中でもおっしゃっている
>なるべく正しい情報を、多く知っているべきだ。その方が「この曲のここがこうなっているのはこういう理由に違いない」などという考察を深めやすくなるはずだからだ。外部の情報によって音楽への理解度が変わるなんて、当たり前の話である。作曲家が何らかの真実に到達したのだとして、演奏家や聴き手がそこにより近づくために、補助具となる情報を利用する。何も間違っていない。
ここについて、元々ヒロシマ・原爆とは関係ない依頼・設計で作られ完成された曲を、後になって「原爆投下後20秒をイメージして作曲した」などとストーリーを入替えて発表したことは許しがたいと考えています。
コメントありがとうございました。
仰るとおりで、佐村河内氏も新垣氏も当初はまったく広島との関連など考えていなかった作品ですから、売り込むためにそれを嘘の物語として利用したのは完全な過ちです。信じた方々に対しての償いは必要でしょうね。ただ、作品についてのみ言えば、嘘が剥がれ落ちたことでより音楽内容について理解を深めやすくなったのではないかと思っています。
面白く読ませていただきました
ドのつく素人の意見ですが、一言書き残したくて書いています
曲の出来については同意しかねます
私にはどういう流れで出来ている曲か分からなかったです
なんていうか、ぶつ切りのよく分からない物体が並んでる感じです
ただ、作曲技法に詳しい人が書き上げたという事は、言われてみればそんな気もします
まあ、今回の騒動後に聴いたので、色眼鏡は外せてないですが
ただ、知らなくても、流れが分からない曲という印象は受けたと思います
多くの作曲家が専門的になりすぎて、一般人向けではないという話は、腑に落ちました
家電製品でも何でも、その分野が成立した後しばらくすると
一般人には分からない品物が出てきますが
多分それと同じなのかなと
そういう意味では、クラシックの受注作品という事で一般受けするのはありなのかもしれません
・・・ふと思ったのですが、作曲者は曲自体を表現したいものなんでしょうかね
それとも感動的な風景とか、心象風景を曲で表現したいんでしょうか
私は後者の方が自然な気がします
最後に、ここに書く事ではないのですが
純粋に音楽を聴くというのは難しいと思いますし
評価というものも難しいと思います
けれど、評論家と言われる方々は専門知識で評論するだけではなく純粋に感じた事でも評論してほしいと、ちょっと思ってしまいまし
コメントありがとうございます。
クラシックの長大な作品は、普通に聴くには長すぎますね。今回の新垣さんの曲にかぎらず、形式や分析方法についてわざわざ勉強をしなければ、構成を理解することさえ困難でしょう。そういうことも必要ないレベルで、多くの人に伝わる構成と音楽の深さが両立できれば、それが本当は理想なのかもしれませんが。
評論家はそういったことも含め勉強をして知識が豊富なはずで、そうすると余計に音楽を他の物事と切り離して純粋に聴くことはできなくなってしまうのだと思います。
こちらこそ、コメントありがとうございます
ちょっと違和感があったので、レスを書かせてもらいます
ぶつ切りというのは、ストーリー感が無いというか、そんな感じの話です
広島なら、平和な朝から始めるんじゃないかなとか、とか
なんか壊れてる表現したいらしいけど、イメージがわからん
こんなイメージ?、、、じゃないよな、、うーん、分からん
という感じの話で
そこで、ここで工芸品という言葉を見て、ぴったり来る表現だなと思ったのです
もの凄くイメージの話で申し訳ないのですが
作ってる人がこういう物を作りたいとか、こんな情景を想像してしながら作ったとか
そういうのが無く依頼書に対して技術的に組み上げていくと出来るんじゃないかなと
だから技術を駆使して作り上げられたという話も納得いくのですが
出来としては同意しかねると書かせていただきました
評論家の話は、、、、まあ、肩書きを名乗るならがんばってほしいという感じです
もう少し素人寄りに寄ってくれれば、クラシックとしても自由度が上がって良いと思うんですけどね
新垣さんは音楽しかやってこなかったから大人なのに常識が無かった。
だから利用されたと思っていますが、犯罪の手伝いになってしまったのは問題。
佐村河内被告は障害者年金の不正受給と新垣さんへの恐喝などの犯罪だと考えます。
またNHKなど報道関係者の一部には犯罪を知っていてベートーベンの物語を作り、儲けたと想像します。
バックボーンの物語でカリスマを作り出すインターネット前の考え方はも通用しづらいです。
また本当の物語を知った人々が曲自体を叩くのも、曲の良し悪しでなく物語で売っていたことの
意趣返しだと思います。
コメントありがとうございます。
もともとはオーケストレーションの依頼という、ごく普通の仕事として始まった関係だったわけで、それがだんだんと様子がおかしくなっていったときにどこでやめる決断をできるか、というのは誰にとっても難しい問題だったのではないかなあと思ってしまいます。
偽りの物語を信じきって、それに感動していた人が怒りを感じるのはもっともなことで、その点についてはどんな言い訳もきかないでしょうね。
今回の騒動、佐村河内氏の指示書によって作られた~との話を聞き、オネゲルの「火刑台上のジャンヌ=ダルク」を思い出しました。
クローデルの音楽的指示付の台本を忠実に再現して作曲されたこの作品、ものすごく感動的に仕上がっているんですよね。
佐村河内氏の行動、詐欺行為は当然断罪されなくてはいけない。・・・しかし、その方法論まで禁忌になるのは非常な損失ではないだろうか?・・・と考えております。
ありがとうございます。
同意します。しかし、今回は佐村河内氏のあのような強烈なキャラクターがあってこそ、情熱が共感しあう瞬間が生まれたのでしょうし、形式的になぞって同じように意味のある作品ができるのかとなるとまた難しいのかもしれませんね。
バッハもモーツアルトも受注生産をしていたのであれほどの大量の作品が作れたし、受注であったが故の、その依頼主に応じての様々な種類の音楽を作りえた、という事実が存在することからいっても、その依頼主がどういう存在であったかということを問題にするよりは、出来上がった音楽をどんな注文で生み出されたのかを考えて、楽しむべきだろうと思います。近代以降の作者中心主義ー職人集団による合作制の否定ーという縛りを超えて、音楽を捉えなおすことが大事だろうと、記事を見て思わされました。ありがとうございました。
確かに仰るとおりですね。コメントを読んでこちらも色々と考えさせられました。ありがとうございます。
音楽は素人ですが、記事に非常に納得しました。
個人的には、売り出し方は褒められないにせよ、
メディアで言われるほど断罪される事なのか、非常に疑問を感じています。
たとえば、
スティーブジョブズがイメージした機器を
プログラマーが作成し、完成品がMacintoshやiPhone、iPadだったなら。
もしジョブズがプログラミングを知らず、しかしイメージを伝えて作品ができ、
人々がそれを絶賛し、喜んで受け入れたなら。
『プログラミングも書けないくせに!』と断罪されるのでしょうか。
『ジョブズに裏切られた!』『詐欺だ!』と騒ぐのでしょうか。
できたものが素晴らしければ、人が喜ぶものであれば、
いいのではないかなぁ…というのは素人考えなのでしょうか。
Appleは企業、彼は個人。
諸条件は全く異なりますが、『嘘をつき、信頼を損なう売り方をした』部分以外、
特に問題を感じず、今回の大報道に非常に違和感を感じています。
コメントありがとうございます。
今回の問題点はその詐欺的な売り方その一点に集約されるはずですね。しかし、その一点はかなり大きな問題なので、安易に許して見逃すというわけにもいかないでしょう。ただ、作品自体が色褪せるといった話ではまったくないと考えています。
全体として大変に興味深いお話を読むことが出来てとても嬉しいです。
ですが1点。楽曲はその他の付帯情報から完全に切り離して視聴すべきと僕は信じています。
それこそ、かわいそうな人が作った曲だから感動するなんて、乞食に小銭を渡すようなちっぽけな行為に過ぎません。
まあ僕が聴いているのはクラブ系の音楽なんで、もともと匿名性が高いというのもありますけどね。
でも音楽を語るときにその付帯情報を長々と語る奴は大嫌いです。
ジョン・レノンが本当に善人である必要はあるのか、僕は無いと思います。善なる世界観を音楽で作れる人、音楽で善を語る人、これらは皆偽善者です。彼らの社会的主張が正しかろうがそうでなかろうが、彼らはその裁きを受けることは無いからです。
コメントありがとうございます。
作曲者個人の来歴などが聴取体験にどう関わってくるかは、確かに音楽のジャンルにもよると思います。また、まず作品の高い質と深みが先に立っていて、あくまで周りの情報はそれを読み解くための付属物に過ぎないという前提も大事ですね。
ただ、やはり音楽それ自体を背景から切り離して聴くというのは不可能だと思います。クラブミュージックにしても、文化の共有といった形での物語が存在するのではないでしょうか。たとえば「あ、ここはFunkot意識してるな!」とニヤニヤしたりとか、そういったことは実は音楽単体で聴いていてはわからない部分です。
すとんと腑に落ちるご意見でしたのでFacebookにシェアさせていただきました。
ありがとうございます!
音楽のプロの方によるしっかりとした意見を拝見でき、非常に勉強になりました。
私は音楽についてはまったくの素人で、今回の事件は佐村河内守のサイコパス的人格のほうにばかり目が向いていたのですが、この記事を拝見し、いろいろモヤモヤしていたものがすっきりしました。
このようなスタイルでの楽曲創作、実に素晴らしい方法ですよね。
佐村河内はなぜあのような経歴でクラシック音楽に固執したのかいまいち理解できませんが、クラシックに何らかの強いコンプレックスがあったことだけは間違いないのでしょう。そこを超越し、プロデューサー役に徹することができなかったところが彼の失敗の原因だったと思います。強すぎる自己顕示欲ゆえでしょうかね。
コメントありがとうございます。
確かに、プロデューサーに徹していればまったく問題はなかったのでしょうけれど、あのような人でなければ現代においてあのような音楽を世に出すことはできなかったのかもしれず、なんとも複雑な思いが残ります。
とても共感できる記事で、思わずコメントしてしまっています。私は、素直にHIROSIMAに感動してしまったんです。
三枝成彰さんが評価されていたTVを見たことがありましたが、クラッシックが素直に感動できない無調性曲から調性曲に思いっきり感動できる新しい時代を感じるとかなんとか言ってました。
その通りの感想を私も持ったのです。
今の時代は、
クラッシック界はまっすぐに無性調の現代曲を穿って、苦悩してる。それは正当な事だけど、新曲になると一般人はさっぱり理解できず感動できない。
一報で、ポップスやロックなど流行歌の伸びやかな流れがあって、そこでは
アーティストはアカデミックな勉強からは無関係な自己流を突き詰めていくことで
音楽を生み出している。
その横に、長い時を経てふるいをかけられて残ってきた日本古来の音楽も再発見されている。
そういう今のいろいろな状況を
「ほどよく、理性的に、理解してブレンドしてちょうどよく、感動できる」
と感じたのです。新しい!と素直に感じました。
それを才能だと感じていたのでまるっきり全て信じていました。
佐村河内さんについては、
「見た目浅原彰晃に似てる。大量に投薬してるとあぁいう雰囲気になるのか。気の毒。」
と感じたことがあり、それも間違ってなかったってことですね。
佐村河内さんは、そういう現代の音楽の状況を分かっていたということは言えると思います。
商業的なカンがすごかったんだと、それはそれですごい才能ですね。
私は、HIROSIMA、やっぱり新しいと思います。美しい曲だと思います。
偶然だけど、善と悪がまるで陰陽マークみたいに混ざらずに合体したみたいな、。
必死でまっすぐ素直に正しく進むだけでは、無しえない所に、
やっぱりたどり着いてるんじゃないかと思ってます。
コメントありがとうございます。
作品自体を素敵だと思う方がいたなら、きっとその作品は救われているのだと思います。現代音楽は晦渋だという印象が一般的だと思いますけれど、新垣さんご本人の作風はとてもユーモアに富んだ、パントマイムのような方向性です。Youtubeにも動画があります(会場で笑いが起こる様子も映っています)ので、もしご興味あれば「佐村河内」曲と聴き比べをなさってみてもおもしろいかもしれません。
返信いただいて、嬉しく思いした。ありがとうございます。
新垣隆さんの曲、聞いてみたくて検索しましたが「インヴェンション あるいは 倒置法」だけしか見つかりませんでした。他にもすぐ聞けるようなものがあればぜひ教えてください。
唯さんの音源も聴きました。素晴らしいです!これからも聞かせてください。
私は佐村河内さんは、音楽家としてはまったく評価できないと感じており、耳が聞こえたかどうかもどうでもいいと思っています。(沢山の人に迷惑をかけ傷つけたことは別にしてあくまでも音楽の価値として)
一方で、
この事件で、新垣さんの才能と、現代音楽という分野を高く評価するようになりました。
”あのような曲ならだれでもできる”なら、それはものすごい。
現代音楽は最前線、そんなの当たり前の事なんですが。
本当に恥ずかしいですけど。
「心に届く」事に”価値がない”とするなら、音楽の本性ってなんなんでしょうか。
例えば、ショパンの幻想即興曲はショパン自身「なかったことにしたい」と思っていたという話を聞いたことがありますが、一番の傑作じゃないけど、ピアノ初心者が憧れる代表曲。
今出来たばかりの曲が、後世に残る価値があるかなんか論じても無意味。そんなん後世の人が決めることですし。 素晴らしい才能を持つ作曲家が影響を受けた、非常に特異な人間が佐村河内さんだったのでしょう。
これからもご活躍を期待しております。時々のぞかせてください(^.^)
10年くらい前に携帯メーカーさんと飲んだとき似たようなことをおっしゃっていました。自由な発想で白紙に好き勝手に考えた携帯より、厳しい制約条件が課せられた中で考え抜いた携帯のほうがむしろ最初に考えもしなかった斬新な商品になることのほうが実際は多いと。360度水平線まで開けたスケートリンクみたいな場所で自由に創作ダンスを踊るより、断崖絶壁を制約を足掛かりにしてひとつも踏み外さないやうにロッククライミングをガンガン登るほうが楽しいと。
コメントありがとうございます。
なるほど、興味深いお話です。制限があると課題の設定や努力の方向づけがしやすくなりますよね。その挑戦こそが面白い、ということでしょうか。
正確な語句は不正確ですが、ひとつひとつの制約が生まれた時の出来事とそこにいた人の思いを理解して彼らが本当に望んでいたものに気づけば、多くの制約は多くの人々の願いに変わるので、それをすべて受け入れて自分が別のもっと美しい答えを出してみせればいいんだと、そんなことを熱く語っておられました。
よく考えると縛りを守ってないから同じような話ではないてすね。m(__)m
横から失礼
同じ話で合ってると思います
バイクレースでもだだっ広い所を好きに走れと言われるととても走れません
そこに空き缶などでコースを作れば、ジムカーナというレースを行う会場に出来ます
これは制限をつけた事によってコースが出来上がり
そこを走れば競争というのが出来るって事になると思います
そうなると、どう走れば最適なのか、アクセルオンのタイミングは
などが組み上がっていって、規則性が出てきたりする訳です
無制限に自由って不自由な状態なんじゃないかなと思います
制限がある不自由は、その範囲の中では自由なんじゃないかなと
まあ、書いてる私にも、あまり意味が分かりませんがw
アリバイ
専門家のご意見に感動しています。
私見では、交響曲は全体を通して聞くと不自然さが残ります。次から次へと大作曲家の風合いが感じられ、落ち着く間がなく目が廻ります。
とは言え、パーツパーツは素晴らしく、近現代の大作曲家の技法を上手く取り入れ、なかなか上質の職人を感じます。
しかし、コース料理で、味噌スープ、ぬかずけの前菜に始まり、一皿目のスパゲッティ、二皿目の刺身、追加でステーキ、最後は中華杏仁では、いくら一品ずつがおいしい物でも、食後の充実感は得られません。
本物には、一つの様式に貫かれた結晶があります。
と言うことで、交響曲は源作曲家の作曲家としてのアリバイづくりが入っているのではないでしょうか?
心を刻むことをせず、注文通りのサービス満載パッチワークを職人として仕上げ、様式の整った作品には作らなかったのではないでしょうか?
コメントありがとうございます。
なるほど、そういう見方も有り得ますね。しかし、大交響曲を作って対価までもらえるというのは、一般的に現代の作曲家にはありえないようなチャンスですし、何より巨大な曲を書くにはそれだけの労力が必要です。そのような機会に、音楽を愛する人間が、あえて自身の納得のいく形を避けて作曲するというのはちょっと私には想像ができませんでした。
記事、面白かったです。 現代の作曲家の多くは自己満足で作曲しているのですね。大衆受けしなくても。でも、自分の作曲を商品にもしたいのですよね? そのあたりにはちょっと矛盾を感じますが。プライド優先&音楽業界でカッコイイと思われる為の曲作りなのですね?
作曲家に「僕は商売人じゃない。芸術家だ」っていうプライドがあるから、素人にわかりやすい大作が世に出て来ない理由がよくわかりました。映画音楽やゲーム音楽が人気になる理由もわかりました! 私は素人なので、やはり万人受けするような、ちゃんと作曲のルール(原理?)に沿った曲が好きです。聞いていて心地良いから。 不協和音満載の現代曲は苦手です。
でも、もし「心地よいメロディー」に甘んじるのが嫌で、本当は好きじゃないのに音楽家としてのプライドが邪魔をして、現代風の曲を作ってしまうのは、同じ業界やニセ音楽通の人から「ベタな曲だなあ」とか言われずに済むからでしょうか? 現代作曲家の中には実はショパンを愛しながら、全然違った雰囲気の曲をわざと作曲してたりする方々が沢山いそうですね。
現代の若い日本人歌手の曲も、「この音の次にこの音はありえない!」みたいな作曲が多数ありますが、理由がわかりました。すっきりです♪ ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
仰せのような側面がないと言うと、きっと嘘になるだろうと思います。実際に、音大の作曲科の試験では調性のある曲を書くとそれだけで評価されないという風潮もありました。近年ではむしろ「なんでもあり」の雰囲気が強くなっているかもしれませんけれど。
ただ、純粋に「心地良い」作品を作る人ばかりになるとつまらないな、と私は思っています。現代音楽にはファッションショーのような側面もあるかもしれません。パリ・コレみたいな服は誰も街で着ませんが、少しずつそこから生まれた要素が色々なブランドに受け継がれていく(のだと想像)、といったような。
唯さん、返信をありがとうございました。「ファッションショーのようなもの」という説明、すごくわかりやすかったです!!
作曲家のロクリアン正岡と称します。
ホームページ(ロクリアンからすぐに検索できます)のトップページ、動画の直後に私も今回の「別作曲家事件」について書き出しておきましたが、昨年の春、佐村河内氏のことを知り、いろいろ研究し大いに作曲のエネルギーにさせていただきました。なにしろ、虚構を支える力がすごいですからね。
広島CDケースの表裏二つの写真の対比 シノヒロシマ⇔マシロヒノシ「真白日」⇔「死の広島」という
山本山の巨大コントラストの豪快といってもよい景気の良さには心底感動しました。
作曲家の仲間≪70歳ぐらい≫にその曲などのことについて話したら、「知っていることの寄せ集めみたいで、何の独自性もない作品」といったのに対し「しかし、モデル=描かれている彼本人 画家でなくモデルのほうは大したものだ」と言い返したものです。以下、ホームページに詳しいのですが
その当時私の手から生まれた弦楽オーケストラ曲「異次元航路」はあの事件、あの佐村河内守の発想と深い関係があり(端を発しているのはエル・グレコの「無原罪のお宿り」ですが)、しかも一番申し上げるべきは、シェーンベルクの浄められた夜」をしのぐ作品、と作曲家から言われもし、久々、クラシック音楽の歴史を一つ前進させる、クラシック音楽という樹木を成長させる作品だと作曲者本人には思える作品だということです。これは、あなた様にはぜひお聞きいただきたい。嘘のような本当の話、日本にはなかった、世界中の現代音楽を見渡してもなかった音楽、音楽の機能を新しく発見した、音楽本領発揮型楽曲なのです。
私は逃げも隠れもしない。できれば当日、お会いしたいものです。武満は特殊の素晴らしさで行きました。
私は普遍の素晴らしさで行こうとしています。事の真偽をぜひ、お確かめください!
2014.2.76時29分 東京で、若い人々は体験したこともないような大雪になるとの予感の中で、
作曲家、ロクリアン正岡記す。
真実っぽいことが嘘に代わることのおおいこの世の中⇔嘘っぽいことが真実に変わる しかも良いことにおいて、
たまにはそんなこと起きなきゃ、また起こさなきゃ、この世の中つまらなくてやってゆけないでしょう!!
残る誤植あってもお許しください。長文失礼いたしました。
コメントありがとうございます。
サイト拝見し、驚嘆いたしました。信念を貫き音楽を作られている方がいるということに勇気づけられます。「モデルの方が」のお言葉、内心何かを感知されていたのでしょうか。興味深く拝読しました。諸々のお知らせもありがとうございました。
海外在住ですが、この問題が気になりよくニュースをチェックしています。
大変興味深く読ませていただきまさした。ありがとうございました。
ところで、佐村河内氏が本当に全聾でいらっしゃるかどうか検証するのは比較的簡単だと思います。
誰かがこれまでのインタビュー時と同じスピードで発話している姿を画面に映し(あるいはガラス越しに見せ)、佐村河内氏には音が聞こえないようにし(テレビの場合は消音、ガラス越しの場合は完全遮音)、発話内容を正確に記述出来るかをテストすれば良いのです。
もし全聾が偽りなのであれば、読唇術も習得していない訳ですから、彼は何一つ書き取ることが出来ないでしょう。
これまでのインタビューでは手話無し、補聴器無しでコミュニケーションが取れていた訳ですから、矛盾が生じますよね。
ただ、このような検証に備えて急遽勉強をすることもあるかも知れませんから、事件収束のためにも、やるのであれば早めに検証していただきたいと遠くから願っています。
コメントありがとうございます。
そうした検証も必要になってくるのでしょうね。ただ、それらで詐欺の全容が明らかになっていく過程の方が手軽に楽しめそうなので、そればかりが話題にされてせっかく珍しく世に出た作品が「なかったこと」にされていくとすれば寂しく感じます。
友人に勧められて来ました。
大変的確なご意見だとおもいます。
しかし一点。
佐村河内氏という人物の振る舞いを見ている限り、
彼にプロデュースの能力があるとは到底思えません。
新垣さんの会見を見ていても、丸投げ状態だったように感じました。
HIROSIMAの元曲の「設計図」とやらも子どもの落書きレベルで、
新垣さんの作曲時の助けになったとは、到底思えません。
新垣さんから森下さんの仰る「作家の力み」が消えたのは、
むしろこの仕事が「匿名」であったことに帰するのではないでしょうか?
現代の芸術が抱える「芸術は個人の内面の発現」という呪詛から、
匿名の作業だからこそ自由になれたのでは?と思うのですが。
ありがとうございます。
週刊文春はお読みになりましたでしょうか。そこに書かれたことからもですし、あの「設計図」を見てもそうなのですが、何らかの激しい「情熱」が佐村河内氏の中に存在したことは確かだと私には思われてなりません。新垣さん(普段は非常に軽妙で諧謔的な作品を書かれている方です)が、自分からはおそらく恥ずかしくて取り出せない類の、幼いままの情熱を露わに、平然と見せつけられたときに、そこに新たに生まれた感情は実際にあったと思うのです。それはおそらく新垣氏がいくら名を伏せても、彼ひとりでは生み出し得ないものだったろうと推察します。
返信ありがとうございます。
なるほど。こういう出会いがなければ生まれ得なかった作品、ということですね。
興味深いです。今後の推移を見守りながら考えてみます。
ご教示ありがとうございました。
こんにちは。はじめまして。
今回、新垣さんの会見と週刊文春を拝読しました。その上で、私は音楽の知識が無いので、純粋に音楽家の考え方を知りたいと思い、色々検索して辿り付きました。
森下さんのご意見を拝見させて頂き、音楽的な意味合いが理解出来た気がしました。会見では、新垣さんが作曲したにも拘らず、作品に対しての執着が見られない事が非常に理解し難いものでした。私ならば、「買い戻したい」と思うかもしれなかったです。特にあの様に障碍を詐称していると思われる人物に、今後も作品の権利があるべきだろうかと考えました。また、どの作品も作るのには其れ相応のエネルギーを必要としたでしょう。しかし、新垣さんの必要としている「スタイル」では無かったのですね。あくまでも「一般大衆受けするクラシック的な」事を考えながら出された「佐村河内の誇大な壮大なる妄想を満足させるスタイル」…。その道の方なら、自分が創り出す新しい作風を、一般受けしない事は分かっていながらも専門的分野の世界で驚かれる(新しい発見とされる)事の方が喜びが大きく、追求し続けるのだろうと思いました。専門的な特殊な作品は、一般人には分かりません。私は、なんとなく昔からの王道クラシックしか、クラシックとは理解出来ないくらいの低いレベルなので。
新垣さんは、あくまでも淡々と感情を表さずに会見で話されていました。私の印象では、会見を手伝ったライターの方のシナリオがあると感じました。最後に義手のバイオリニストの女の子とのセッションも、このライターの提案であろうと思っています。でも、ライターの世界では素晴らしくやり手であると思いますし、運もあると思います。ライターの方を否定するつもりもないです。
今回は音楽分野でしたが、専門的な分野にいる方は、どうでもいいようなこの世間の常識に疎い事がよくあると思います。新垣さんのような方や、佐村河内氏の芝居に巻き込まれた音楽関係者が、マスコミや世間が作って煽ったつまらないセンセーショナルな風潮に潰されないことを祈ります。結末が悪かったですが、音楽評論家の方々を責める気持ちには到底なれません。そういうものを求める土壌があるからです。誰もが、純粋に音楽を聴ける訳ではないです。特に今の世の中、情報が多すぎて知りたくない事も知ってしまいますし。また、障碍者に対して否定的な事を言うという事は、自らの首を絞めることになります。健常者でも障碍者でも聖人君子ばかりではないのに。
勉強になりました。ありがとうございました。
google検索で、記事タイトルに興味を持って拝見しました。
専門家ならではのとても参考になるご見解だと思い、私のブログでも紹介させていただきました。
おそらく現時点で最も鋭いご見解で、新垣氏の行動、記者会見での発言を理解する上で必読だと思いました。
ただし、「なるほど」とうなずかされた反面、芸術にウソがあってはならないし、
森下さんのおっしゃる「プロデューサーつきのスタイル」もウソを含むものであってはならないのではないか、
という感想も持ちました。
(「ピアニート公爵」は騙すつもりもないし、実際に誰も騙されないので、ここで言う「ウソ」には当たりません。)
森下さんの演奏もすばらしいと思ったので、ブログで紹介させていただきました。
まったくの通りすがりでこちらのサイトを拝見いたしました。
森下さんのご意見を呼んで、共感いたしました。
私は佐村河内氏の自伝(?)をずいぶん前に読んでいました。子供が小さいときから音楽をやっているので、音楽関係のものを読むことが多いからなのですが、そのときにものすごくもやもやしたものを感じて家族にも読んでもらってどう思うか聞いたりもしました。
私も家族も、彼が母親からのピアノのスパルタ教育を受けて10歳には何でも弾きこなせ、次は独学で音楽、作曲の勉強にまい進したという点にまず首をかしげたのです。
神童振りを発揮したのなら、なぜ母親から次の先生にステップアップしなかったのか、なぜコンクールに出なかったのか。そもそもそういうことに関心がないのになぜスパルタだったのか。私の知っている演奏者はみんなスパルタ教育をうけていますが、その先には演奏者としての成功のためへの何かアクションがあります。次のステップが独学など到底納得できないのです。我が家の愚息は才能うんぬんは抜きに(笑)音楽をやっていますが、受験のためにはピアノもソルフェージュも習いに行かなければならないし、先生も何人か変更しなければなりませんでした。
ですから本を読んだとき、天才っていうのはそいうものも独学でできてしまうものなのかと・・・。
それ以来 その本を読み返すことはなかったのですが、何年か後にテレビなどで取り上げられてCD店にCDが平積みされているものを見ました。そのときに皆さんがとても良いといっておられましたが、頑なに聴かないようにしておりました。ある意味森下さんと同じ理由で、聴いてもし良いと思ってしまったら嫌だったからです。
それでも耳にすることはありましたが。
今回このようなことが発覚して私としては胸のつっかえがとれすっきりとしました。
やはりきちんと学んだ方が作っていたのだと。
ひとつのパッセージを弾けるようになるために、ただひたすら単調な練習の繰り返しをしている子供を見て、また損得を考えずに音楽を熱心に教えてくださる先生方を見て(もちろんそういう方ばかりではありませんが)おります。新垣氏の会見を見て、本当に納得納得です。
ですから、この騒動がおさまったら、新垣氏の曲として聴いてみたいと思います。
長々と申し訳ございませんでした。
幼少から作曲を始め、音楽短大を作曲で卒業して以来、曲を作るという事から離れていたものです。
ブログ読ませて頂き、共感と自分の気付きがありました。
私は、クラシック音楽をイヤイヤ続けていたのですが、そんな私が感じた違和感は、そういう事だったのかと。
フレーズやモチーフを絞り出す時に、あんな感じになるのはわかるけど、それを広げていくのは、感情的ではなく、もっと理論的になるはずだと。
それなのに、曲としては計算されている。
この問題が公になってから、こういう風にハッキリとした違和感になったのですが。
NHKのドキュメンタリーを見た時に、
「イヤイヤ!それおかしいやろ?」
って思ったのを思い出しました。
せめて、フレーズだけでも提案してたら、お2人もCDを購入した人も納得出来たと思いますが。
偶然、こちらのサイトを拝見することができました。
私は音大出のピアノ教師兼ピアニストの端くれです。
いつだったか忘れましたが、ベートーヴェンの再来という新聞記事を読み、ベートーヴェンを敬愛する者として、取り敢えずはCDを購入して聴いてみました。
感想としては、相当な作曲技法を学んだプロの作品であることは間違いないけれど、全く私の感性には響かず、途中でやめてしまいました。
1箇所だけ、ここは美しいかなーと思うところはありましたが、何かを寄せ集めたような印象を持ち、この曲を聴くのなら、ベートーヴェンやショスタコのシンフォニーを聴いてた方が良いな、と思いました。
その後、プロフィールを読み、疑問がいくつか湧いてきました。
まず、偉大な作曲家というのは早熟なはずなのに、彼の若いころの作品がない、これだけのものが書ける人なら健常者であった頃に絶対、ちゃんとした作品を書いているはずなのに、それがないのはなぜ?
もう一つ、ピアノ教師であった母親に10歳で教えることは何もない、と言わしめたほどのピアノの腕前なら、
普通はもっと良い指導者を探してレッスンして頂くだろう、という母親の立場としての素朴な疑問でした。
(ついでに言うと、佐村河内氏と同じ出身地在住ですが、そのような神童の話を聞いたこともなかったし)
それ以来、全く興味がなくなり、テレビの番組も見ていませんでしたが、今回の騒動を見て、やっぱりね、と腑に落ちました。
新垣先生はちょっと浮世離れしたような、本当に音楽のことしか頭にない優しい方なのだろうと思いました。
才能あるこの方が本気で書かれた曲を聴いてみたいと思います。
ともかく、音楽家は作品が全て、演奏家は演奏が全て、付け加えられているキャッチフレーズや物語より、その作品や演奏を余分な情報を取り除いて聴くことが一番大切なのだと思います。
実際、良い演奏家なのに、知名度がないためにコンサートはガラガラということも多いですね。
lコンビネーションが生み出すものというのはやっぱりあるんだなあと
ジョブズが作ったかのアップルも元々はエンジニアのウォズが作ったものをジョブズが売り込むという形でしたし、
「成功してやるんだ」、という幼稚で傲慢なしかし強力なモチベーションと「難しいことはわからんがコレがいいコレ」、という俗物的かつ鋭い感性
そういうパッションとビジョンの持ち主が、それを実際に丁寧にカタチに出来るエンジニア、アーティストと組み合わさる事で実現できるものがあるのだと
(これも勝手な想像の産物・・・創作がつくづく好きですよね人間
とまれ、作品としての創造とプロダクトとしての設計が、もっと矛盾なく自然に分担、協力できるようになるといいのかな、と
本件、興味深く拝見いたしました。
主題と共に
>人間以外が作った音楽があったとして
には大いに興味をそそられます。
情報学では「自動作曲」の研究がございますが、そのアプローチにも少なからず影響を与えるものと思います。
機会がございましたなら、ぜひお考えを拝見したく存じます。
こんばんは。はじめまして。
非常に興味深く拝読させていただきました。
私はこの人のシンフォニーを聴いて以来「常に轟音の鳴り響く中で霊感の降臨を待って作り上げたこと」に対して、幾度も幾度も想像してみました。『本当にそんなことが可能なのか』と。何度考えても私の思考は途中で停止してしまいました。この事件の第一報を知った時はもちろん驚愕したのですが、その次の私の感想はと言えば「ホッとした」というのが正直な感想でした。
『本当はそんなことは起こっていなかった』のだから。
更に言えば、少しずつ状況が明るみになるにつれて私の安心感は増して行きました。あの耽美的な美しい旋律や情動的に激しいパッセージは心優しき魂によって作られたのだと思ったからです。
20世紀に入って新たなシンフォニーの創作行為が事実上止まってしまい、21世紀に至っては殆どと言って良いほど作られなくなってしまっているのは既知の事実ですし。ここで語られている「使い古された書法も聞き飽きた調性の世界もつまらない」もまた真実の声であると理解しています。しかし、音楽業界がそうだとしても、聴衆は新しい感動を期待しているというのもまた事実だと思うのです。現に新たな旋律美を見つけた多くの聴衆たちが甘い蜜に群がる虫たちのように飛びついたのですから。
新垣氏が「自発的にあのようなタイプの作品を書くことは不可能だった」のであれば、今後「依頼主からの受注生産を続ける」という行為としてのクラシック音楽の創作活動の場が増えることを期待します。新垣氏だけでなく、他の作曲家さんたちによるものでも良いのですが「映画やアニメ、ゲームのBGMとして発注された曲」ではなく、たとえそれが「クラシック音楽のシンフォニーとして依頼主から発注された曲」だとしても、心揺さぶられるものであれば私は聴きたいと思っています。
作られた曲に罪は無いと思いますし、事件後もあの音楽は聴いています。それに、これからも聴き続けていきたいと思っていますし、新たなシンフォニーがこれからも生まれ続けて欲しいとも思っています。
長文書いてしまい申し訳ありませんでした。この記事を拝読し、いろいろなモヤモヤが腑に落ちた気が致します。ありがとうございました。
僕も似た経験があるだけに、すっと腹落ちしました。
僕にとっては自分が設立した法人が佐村河内さんになってくれています。
仕事としてクリエイティブに向かうときは、とても楽ですが、自分自身のクリエイティブをしている間はやはり仕事ほど割り切って作ることは難しいです。
新垣さんにとっても発注されたという事実抜きにはあのような曲は生まれ得なかったということはとても自然だなぁと感じます。
別にそれが悪い訳ではなく、自然な形で行われればもっともっと陽の目を見たことでしょうね。
例えば久石譲さんもジブリからの発注なしにはあんなに大衆受けのする楽曲をうみだすことは出来ていないんじゃないかなと思いますし。
とても興味深い内容です。
他の分野、例えばファッションや映像、小説では越境的な作家が増えています。音楽の世界でもそうした作曲家の需要はあるでしょうね。ゲームやアニメ、映画のBGMとして「発注」された曲の公演はよく聴かれていますし、より多くの聴衆がクラシックを受け入れる土壌はありそうです。
商業音楽にも目を向けたプロデュース能力を持った人材が育ち、音楽的な発見をより多くの人が享受できるようになればいいなと思います。
サイトリニューアルしたのですね!!おめでとうございます!
今回の件で森下さんは何かコメントしているかなと、サイトを訪れてみたら!今までの駄文のアーカイブはどちらかから拝見できないのでしょうか。。ぐずり。
さむらごうちさんについては森下さんと同じような印象をもちました。違和感。
さむらごうちさんが欲だしまくってメディアにでまくったりなんたりせずにいたら、新垣さんはもしかしたら暴露しなかったかもしれないですよね。ゴーストが表に出ずに受容された大作曲家、名作などたくさんあるのでしょうかねえ・・・
初めまして、こんにちは。
現在高校三年生、森下さんの後輩にあたるものです。
ツイッターで紹介されていてここに辿り着きました。
私は幼少時から音楽教室でソルフェージュを習っておりましたが、すぐに作曲に興味を持ち始め遊びで色々と書き散らすようになり、中学に入ってからは個人で師について和声法や対位法を勉強しております(もっともピアノのほうがあまり芳しくないのもありますが(笑))。
大学は普通大学にと考え、音楽の勉強は現在中断している状態ですが、将来音楽に携わる仕事をしたいという夢は持っておりますので、今回の騒動には強く関心を持っております。
私は佐村河内氏のことは、思い返せば暫く前に『HIROSHIMA』の広告を電車の中で見たような気がしますが、その時は曲名を見ただけで興味をそそられることもなく(それはそれで人間として微妙かもしれませんが)、以来つい先日まですっかり忘れておりました。
それで慌てて件の曲をyou tubeで探してみたのですが、冒頭を少し聞いてすっかり了解致しました。
ついでに佐村河内氏の経歴も見てみましたが、思わず大笑いしてしまうと同時に、これが世間で(ある程度は)通用していたのかと考えると少し残念にも思いました。
現代音楽は大衆と大きく乖離しているということは、ほぼ確実に言えると思います。
そもそも大衆を振り返ることを破棄しているわけですから当然ではありますが。
しかし(調性の)クラシック音楽自体も、根強いファンはいるものの、相対的にみればその勢力は弱いでしょう。
一種の二段構造だと思います。
クラシックが「一般大衆受けする」のかどうかも、私にはよくわかりません。
現代の若年層の音楽に対する姿勢を、ある言葉——特に私は学生であるのでこの言葉をよく聞くのかもしれません——が象徴的に表しているのではないかと考えることがあります。
”作業用BGM”です。
ここに至って音楽はもはやそのイメージも希薄になり、単なる背景になっています。
どうやらdurかmollかもあまり関係ないように見受けられ、私にしてみればカルチャーショックとしか言い様がありません。
そもそも私は幼少時からの訓練の賜物というべきか、音楽が聞こえてくると半ば自動的に分析し始めてしまいますので、音楽を聴きながらなにか作業をするというのは、情報の氾濫に呑み込まれながら更に別な処理をしなければならない、まさしく苦行です。
ゲーム音楽の無限ループもつらいので、消音にして遊んでおります(笑)
商業音楽を「誰でも書ける」というのは結構なのですが、芸術音楽の大先生方が現在の大衆の音楽に対する要求をはたして把握しているのかどうか、そこはかなり興味があります。
今回の件、先生への失礼を承知で敢えて申し上げると、「世間知らず」が少し過ぎているのではないかというのが私の第一感でありました。
興味がないというのでは済まされない時代になっているのではないかと考えます。
この点において、今回の件はクラシック界にとって教訓とするべきだと思います。
そして音楽と「物語」ということ、森下さんの論を拝読して大変納得致しました。
私など心が捻れきっておるのか、作曲家のエピソードなど聞いただけで胡散臭く思ってしまいますが、かといって音楽を聴けばそこに緻密な作曲技法を見出だすのであり、これも立派に「物語」を感じていることになるんですね。
また、これに関係あるのかないのかよくわかりませんが、「モーツァルトがガン治療に効く」との如き話も気になっております。
心理学なども関わってくるのでしょうか。
それからこれが動物にも適用できるのかということ。
ある意味、もっとも純粋に音楽を聴いているのは動物なのかもしれない・・・・・・というのはさすがにロマンチック過ぎると思いますが。
拙くて取り留めのない駄文を長々と失礼致しました。
コメントありがとうございます。
後輩さんということでとみに興味深く拝読しました(これも物語……)。
私は聴くだけで分析できてしまうような能力がないもので、普段は何の問題もなくBGMが聞けて幸せなのでしょう。
ゲーム音楽などは「気分」を左右するためのものが多いので、ゲーム世界を制作者の意図に沿って味わうのには大切な要素だろうと思っています。やがて作曲がAIによって説得力を持ってなされるようになったときにはヴァーグナーばりの無限旋律でもってゲームを彩ってくれるようになるかも、ですね。
一連の「音楽」を「鑑賞」する手がかりを得た気になりました。よい論評だと思います。
私は、突発性難聴を繰り返す者です。
難聴も様々な症状があり、体調により起き上がれなくもなれば、耳鳴りがなりやみ普段とかわらず過ごすこともできます。
娘はピアノをしており、娘のピアノを聞けるときもあれば、自分の声でさえ耳に不協な音が鳴り響き聞くことすらできないときもあります。
だからこそ、彼をテレビで見たとき衝撃をうけました。
衝撃には2つあります。
1つめは、わたしもあんな状態になるのかという恐怖です。オムツ、寝たきり、暗闇。
2つめは、そんな中でも音をさぐり交響曲を描くことができるという感動にもにた希望。
曲を聞きながら涙が出ました。
恐怖→希望を曲から何とか感じようとしたからです。言い聞かせるという表現のほうがあうかもしれません。
事実を知った時、ショックで他のクラッシックも聞けなくなりました。否応なく嘘を思いだし辛くなるからです。
しかしながら、新垣氏の会見を見、この記事を読んで気持ちも考え方も変わりました。
あの曲が全体が素晴らしいかは別にして、新垣氏という新しい物語を得て、いかに前のストーリーが陳腐だったか。
ストーリーを取り除き、作曲手法と考え、もう一度聞いてみようと思えました。
佐村河内氏は許せませんが(笑)
クラッシックをもっと知ろうというきっかけになったことは間違いありません。
森下さんのこのブログと皆さんの考えに触れ、納得できる部分が多くありました。ポピュラーミュージックでは影武者の話は少なくなく、アイドルバンドの音源でスタジオミュージシャンが演奏しているというのは驚く程の事ではないという状況があります。エアバンドがミリオンを達成しているというのも現実です。それが許されるのは、オーディエンスとパフォーマーにマナー的なものが何となく確立されていたりするからだと思います。良くも悪くもそれはそれ。例えば佐村河内守プロジェクトという名義で出されたものであれば何ら問題無かったとも言える面があるかと思いますが、やはりクラシックのフォーマットにエア作曲家は必要ないのでしょうね。
楽曲或いは音源だけの価値で判断すべきか、作曲者・演奏者のプロフィールやストーリーも含めてその音楽に向き合うのか・・・。我々がレコード、CD、コンサートにお金を払うには理由があり、それはその音楽・アーティストを気に入り、それをが好きな自分を成立させる為と言えると思います。そこには好きになる必然性やストーリーが不可欠です。CDショップの店長やラジオDJや好きな評論家が薦めてくれているバンドや曲だから聞くのです。いくら才能ある素晴らしいミュージシャンやその楽曲であっても出会えなければ消費されません。だから逆境やハンデを克服したストーリーが無ければ話題にされ、メディアに取り上げられることも無かったでしょう。またビジュアルや経歴も商品価値に影響するでしょう。その意味で彼(ら)の楽曲の為には嘘を突き通す事もアリだったかも知れません。その嘘をカミングアウトし、ストーリーを壊してしまいました。楽曲たちにはかわいそうですが、時間の経過とともに忘れ去られる運命だと思います。良い曲なのにという慰めは不要だと思います。
森下 唯 様
今回の事件に興味を持ちネット検索する中でこのサイトにたどり着きました。この問題に対する専門家を含めた発言の中で私が一番評価できると考えましたので、駄文を投稿させていただきます。
まず、自己紹介から始めますと、私は物理学者ですが公職からは引退し、余生を自宅での研究と著述業に捧げている者です。クラッシック音楽を、演奏会、CD、FM放送などで日常的に楽しんでおりますが、楽譜も読めない程の「低レベル」の愛好家です。これでもクラッシック音楽の演奏会の聴衆で言えば平均値をやや下回る程度ではないかと自負しております。当然、現代音楽は全く受け付けません。
佐村河内守氏については以前に何かで少し読んだだけだったのですが、2月2日のある演奏会で配られたチラシの中に、「交響曲第1番」演奏会の全国ツアーに関するものがあり、興味を持ちました。チラシのキャッチフレーズと指揮者(金聖響)の説明を読み、無視できない作品かも知れないと考えました。でも現代音楽は嫌いなので、演奏会や止めてCDを買ってみようと考えておりました。その2日後に今回の事件が発覚した次第です。
事件発覚後に私が行ったのはアマゾンの「交響曲第1番」のCDについてのレヴューを読むことでした(既に削除)。8割方5つ星(絶賛)でしたが、発覚以前に掲載されたレヴューで1つ星(最低評価)と2つ星がそれぞれ10件程あったと思います。それを読むと、マーラーなどの後期ロマン派の作品と比較して、高評価はできないとの内容が多かったと思います。従って、聴く人が聴けば、その水準が容易に見抜ける程度であることが分かります。
私の疑問は、このような曲あるいはその作曲者が何故業界から排除されなかったのかということです。専門家と一般人の間の格差はどの業界でも同じであり、私の専門分野で考えても、並以下の業績が喧伝されることは有り得ません。確かに、この作品に疑問を表明する専門家がいなかった訳ではありませんが、それが自浄作用繋がらなかったことは疑えません。
森下さんのエントリーにより、1)「交響曲第1番」が、後期ロマン派の名曲並とまでは行かないとしても、それらと比較して全くの駄作とは決め付けられない水準の作品であったこと、2)当然、作曲技法としてもかなりの水準であること、の2点により、あからさまにこの曲が批判できなかったことが理解できました。クラッシック音楽界は腐りきっているのではないかとの疑問を感じたこともあったのですが、腐りきってはいないとの判断に至りました。
それにしても、「交響曲第1番」が日本の音楽評論家、クラッシック音楽家、指揮者の真贋を炙り出す副作用があったことは興味深い出来事と言えます。
おっしゃる通りだと思いました。
クラッシックの素人ですが感じた事をコメントさせていただきます。
「発注」される事で「制約」を受けながらもそれは同時に「許可」でもあるという事ですよね。
さあ、自分の曲を1から作りなさい、と言われるよりオファーがあり共同作業であるならば、気が楽ですし、皮肉にも「制約」の中でこそ自分の力を発揮しやすいんじゃないでしょうか。
映画音楽、アニメのテーマ曲など、作る側は楽なんじゃないでしょうか。それが本当に作品として価値があるものだと思えるものかどうかは別として。
確かにあの交響曲は良く出来てはいるけれど、結局「~風」からは逃れられないわけで、でも、そういう「~風」でもいいから聴きたい、という音楽ファンが大勢いたという証明じゃないでしょうか。何百年も前の作曲家じゃなくて今を生きる作曲家だからこそ今の感じを出せると思う。あの曲が共感出来るんだとしたらこの時代に作られたからでそこは嘘じゃないからでしょう。だから、作る側も聴く側もあえて理解したうえで古い技法を使った作品の受け皿があってもいいんじゃないかと思いました。そこからまた新しいものが出て来やしませんか?
今回、私含め大勢の人が騙されましたけど、「本当に凄い作品」と「新しくないけど良く出来た作品」ってあるとおもいます。聴く側の音楽知識というより、音楽体験じゃないですかね、問題は。でも、新垣さんという方は素晴らしい実力のある作曲家だと思います。そうですね。腑に落ちたというか、魂の叫びだと言われるよりはいいです。これがバレる前も、耳が聞こえなかったら脚光は浴びなかったんだろうから、日の目を見ない実力のある人は他にも沢山いるんだろうな~と想像しました。
でも、どんな芸術でも、「過去の作品の路線」を引きずった中での「新しさ」を求められるので、オリジナリティーなんて、あってないような物だし、本当にストイックに芸術に向き合ったら、曲なんて書けないし絵も描けないかもしれません。
しろうとからすれば、クラシックだけがストイックで過去のものばかりを演奏し続けているのも違和感。現代音楽にも違和感。何百年前の王様に頼まれて作った曲をコンサートホールで指揮者が振っても感動的に聴く事ができません。
他ジャンルでは平然と似たような物をこしらえてそれが売れるという世の中なので、音楽好きにはイライラの種。なのに魂の叫びに近い事いうアーティストさん多いです。苛々します。でも売れるのです。聴衆って似たようなものを欲しがるんですかねぇ。安心するんですかね。
価値の低い物(新しさが皆無)に対し、これだけ需要があるという事です。
音楽が嗜好品で使い捨てであってもいい、という考えに立てば、クラシックも使い捨ての交響曲をやってもいいんじゃないでしょうか。逆に「純粋に音楽を評価する」って何なんでしょう。
自由競争で使い捨ての中から傑作といわれるものが出てくるのかなとはおもいますが。
漫画のように原作+絵かきというのはありかもしれませんね。それでマナエイエビ問題も合わせて考えると人間の感性はまずいものには敏感で上手いものには鈍感かもしれません。だからこそ人類は生き残ってこれたのではないでしょうか。より敏感に上手さを感じるには属性情報をもとに脳の前頭前野で作り出す以外にないのだということを認識しておいたほうがよいということだろうと考えています。
そういえば初代セルシオが出た時、トヨタの発注で三枝成彰が「セルシオ交響曲」というのを書いてました。1989年ですね。高輪プリンスホテルでの新車発表会に自動車記者を沢山呼んでフルコースのディナーを食べさせて「セルシオ交響曲」を演奏したそうですが、楽譜は出版されていないようです。もちろんレコードも無いみたいです。
私も「HIROSHIMA」に吐き気を覚えた一人です。やはり違和感が大きかったので、「ロック好きが迎合したのかな」などと。それにしても緻密な音楽には違和感を…。
私も「嫌い」と解釈して、それ以降彼の作品には触れませんでしたが、「HIROSHIMA」がそういういわくのある作品なら、もう一度聴けるのではないかと思っています。まあ、もう入手は困難でしょうね…。
クラッシックはそもそも聞かず、(印象派のピアノものぐらいしか興味無し)、上の方で学生さんが指摘してる、「作業用BGM」としてダンスミュージックを掛け続ける類いの人間なので、今回の騒動には野次馬的感想しかありませんが、本稿は興味深く拝見しました。詰め将棋、という例えに納得出来るものがあります。
当初、ゴーストの方が音大の非常勤講師、と聞いて、ゲームミュージックとか、映画音楽とか、商業音楽に対する業界の風当たりみたいなのがあって、ゴーストに甘んじたのかなぁ、などと想像しておりましたが、やはりプロの矜持として、一般受け、分かりやすさを忌避される部分があるのだとすれば、門外漢としても残念な気が致します。
三善晃門下の方、なんで、「赤毛のアン」の主題歌を担当された事を、否定的に聞かされたりもしたのかしら、と邪推してみたり。
素人、門外漢としては、もっともっとクラッシック畑の方々が、商業音楽の分野に啓蒙に来てくれたら、行き詰まっている商業音楽の分野にも刺激があるのではないかなぁ、と思ったりもします。
歌舞伎の世界で、先代猿之助さんが目指した事、先代勘三郎さんが目指した事が、クラッシック畑にももっと必要なんではないかと思いました。
ちょっと異論が。自分はHIROSHIMAしか聴いていませんが、
楽式論を無視したものではないものの、オケ譜書きを経験した
上位音大の作曲科学生なら誰でも書いちゃうレベルのものにしか
思えませんでした。
あと、世の中にすごい曲を出したいという純粋性から出てきた
ものだとも思えません。
ピアノ科出身からはこういう風に見えるのだなと、興味深く
読ませていただきました。
新垣氏の苦悩にたいする所感
森下唯さんのピアノには、初夏のケヤキのような、
エッチな匂いを感じる一音楽ファンです。
ジャンルは違いますが、ゴーストを生業にしている者です。
私も、世間的には先生と言われる職業に就いています。
ゴーストに依頼するメリットは、依頼者が目指すものを客観的に捉え、
より魅力的に演出できる商品を、生み出してくれる事にあります。
自分がゴーストを始めたきっかけは、偶然機会があり、軽い気持ちで
作ってあげたらウケた、そしたらまた依頼がきた、の反復ですね。
依頼者を喜ばせ、それによって世間も喜び、メディアで称賛されれば
自分もうれしいし、最初はバイト感覚なので素直に楽しめました。
そんなことを何年も続けているうち、ゴーストとしての倫理感のような
自分を律する掟も必要になります。とにかくお互いバレるとマズイので
堅く口を閉じる、証拠を残さない、法に触れることはしない、といった
自分なりの正義を遵守していると、さらに信用され仕事も増えます。
ゴースト(こんな言い方はしませんが)を批判する人は世間知らずです。
どのような業界にもゴーストが存在して、社会がうまく回っています。
ただ、ゴーストを長くやっていると、反社会的な組織からの依頼を紹介
されることもあります。これがひじょうに厄介な問題となります。
もともとバイト感覚なので、楽しめていた事が、楽しめなくなるのです。
依頼された仕事自体に問題がなくても、反社会的な組織の活動を実質的に
助長するような行為は、人としてどうなのか、という倫理が働くのです。
反社会的な組織からの依頼、といっても、最初はわかりません。
依頼者に誘われて一緒にゴルフへ行っても、親切でいい人なのです。
そうして仕事を引き受けてしまい、進めていくうちに判明するのです。
ゴースト分野の仕事をしている人なら、誰にでもあると思います。
紹介者の顔をつぶすわけには、いかないので、仕事をするわけですが、
そんな経験を何度か積んでいると、対処の仕方がわかってきます。
今回の新垣氏の記事、謝罪会見を見ていると、ここに至った胸のうち、
逡巡が、同業者(でもないが)としてよく理解できます。
最初は楽しかった、ところが、ある時期から依頼者が自分の倫理に反する
行いを始め、自分がそれに加担することになった、そのことの苦悩です。
ゴースト同士が情報交換し、ノウハウを得られるような場所はないので、
それぞれ自分で解決するしかないことに、この事件の稚拙さがあります。
場数を踏んでいるゴーストならば、対処の仕方はいくらでもあるのですが、
新垣氏の場合、20代から始めクライアントは一人、しかも最初はいい関係
だったのが、真綿で首を絞められるように、逃げ場のない状況に陥った。
反社会的なクライアントから、どのように離れればいいのか、といえば、
クライアントに軽蔑され、こいつは使えないと見限られる、ダメダメな
仕事をするに限ります。しょうもない仕事をすればいいんです。
新垣氏には、それができなかった。あいかわらず、一生懸命いい仕事を
してしまった。新垣氏の生徒さんたちが証言している通り、常に真面目に
ひたむきに、クライアントが喜ぶ作品を書き続けてしまった。
単純にゴーストとは割り切れない、愛弟子への思いもあったのでしょう。
それが新垣氏の、生徒さんたちから慕われる所以の、人の良さでもあり、
処世術にうとい、胆力の弱さが引き起こした事件ともいえます。
しかし、反社会的なクライアントを増長させてしまった、責任の重みを
自ら認め、つぐなう覚悟をされている新垣氏の行為は、尊いものです。
この事件により生じた、商産業一連の取引損害については、当事者同士が
交渉して決めることであり、お金のことで外野が騒ぐのはお門違いです。
裏切られたとか、高橋選手が等の罵声は、甘んじて受ける他ないが。
ゴーストを暴露した時期については、適切なタイミングでしょう。
2月頭より早くても遅くても、もっと面倒なことになったはず。
なんで、もっと早く告白しなかったのか、という意見は当たりません。
眠れぬ夜を重ね、崖っぷちで誰かに押されない限り無理なんです。
新垣氏には、はからずも社会に評価されてしまった部分の能力を磨き、
今後の人生は、そちらの方向で再挑戦してほしいと願っています。
こういう所で人の書き込みにこういうレスつけるのはあまり趣味じゃないんだけど
ちょっとだけ書かせてください
まずゴーストライターについてですが違法性が疑われます
wikiのゴーストライターが根拠ですが、法解釈には変な所は無いと思います
>ゴースト(こんな言い方はしませんが)を批判する人は世間知らずです。
>どのような業界にもゴーストが存在して、社会がうまく回っています。
これは間違ってます、もしくは正しくありません
うまく回ってるように見えてるだけで、実際には社会的に損失が出ているはずです
まず製作者の名前が出ていれば、その人に対する仕事の依頼など、正常な仕事が回ってくるはずです
その機会が無くなってる訳です
それを守るために著作権がある訳ですし、実際問題ダーティな仕事が回ってくるという事でもリスクが多くなってる訳です
次にゴーストを使ってる人についてですが、これは表に出た時に信用問題になる訳で
これもダーティな話と関係性が出来てしまいますよね
あとは新しく出てくる人の機会を潰す事にもなっています
最後に業界についてです
どういう認識でいらっしゃるか分かりませんが、名前で利益が出てるから上手くいってると思わない方が良いです
内部で正常な競争が行われなくなって、そのうちに業界自体が衰退していきます
今の芸能界を見ればすぐに分かる話だと思います
外から見てると、ダーティな関係と利権のしがらみで身動き取れない状態に加えて
ネットが出来上がったために噂は広がりやすく、検証しやすくなってる状態だと思います
そして芸能界では自浄作用が効いてないように見えます
この信用損失は正常な競争が行われていないからでは?
その一因としてゴーストライターなどを許容している環境があるのでは?
使うなら表に出して使えばいいんではないかなと思いますよ
名前を使いたいなら、監修という便利な言葉があるのに、何で使わないのかなと思いますね
こんにちは。
海外組なもので、いい感じに情報から隔離されていたためあの交響曲については初めて知りました。
佐村河内という名前自体は何かのサントラで知った記憶があります。
確かブックレットに「現代音楽ではこうした調性音楽は書けないがBGMとしては成立しうる・・・」とかあったような。もう随分昔なのでうろ覚え&記憶違いもありえますが、これももしかしたら新垣さんの文章だったのかもしれません。そしてある意味本音だったのかも?
もう色々なところで書き尽くされてる感じがするトピックですが、私はあの交響曲は(もう第三楽章しか聞けませんでしたが)精巧なコラージュというようにしか聞こえませんでした。マーラーとの類似はよく指摘されてますが、そういう大まかなレベルを越えてすごく細かい部分部分で色々な楽曲からの借用が見られます。
「贋作作家」のお遊びとでも言えるでしょうか?皮肉だと思えるのは、佐原河内(及び周囲)は本格的な交響曲として世に出したかった訳なのでしょうが、新垣さんとしては軽妙なジョークだったのではないかと(専門家にはネタ探しの楽しみを持って聞いてもらうような。そしてそれ以外の、ゲーム音楽から入ったファンには直で受けるような)。
楽曲そのものを、日本の交響曲の新曲として聴こう、というのはちょっとキツイと思うのです。これからこの曲がどういう運命を辿るのかは解りませんが、数十年後、「現代性」という軛から解き放れた時こそが再評価の時なのかもしれません。
現時点ではクラシック音楽の受容のされ方のケーススタディの恰好のネタという感じですかね・・・
新垣さんと同じ時代に音楽大学に通っていた者です。私の同級生の中には、アイドルの話で盛り上がるグループがいる一方で、アイドルのことを「その方は何の楽器の演奏家の方ですか?」と、一般の方には理解し難い、テレビすらほとんど観ない浮世離れをしたお嬢様とが混在する不思議な世界です。
新垣さんもこの浮世離れした組に感じられました。一番気になる事で誰も触れていないのが、新垣さんと偽ベートーヴェンを引き合わせた人が絶対にいるはずなんです。
何と言って引き合わせたのか…。新垣さんは、最初はアシストだと思っていたと言っていたと思いますが。
初めまして。
関連記事から飛んできました。
私はこの事件に吐き気をもよおすほど嫌悪感を覚えました。
彼の「いかにもクラシック作曲家」
らしい風体。
ざんばら頭に異様な雰囲気、果ては杖ついて(これも演技ではないかと)身障者を装い、世間の同情を引こうという姿勢。
こう書くと気分を害されるかもしれませんが、クラシックに縁の無い一般人が抱いているイメージなんです。
歴代の作曲家の肖像画が音感室に飾られていましたが、そんなのばっかりでした。
ベートーベンが全聾になりながら「田園」を作曲したことは誰でも知っています。誰もが感動しますよね。
このことを利用したのは明白。
彼のやったことは全ての音楽に対する冒涜です。
森下唯様
とても興味深く読ませて頂きました。
私は60代のアマチュアのクラッシク愛好家です。
趣味で弦楽器をしています。
音楽についていつもモヤモヤした気持ちになるのは、現存する作曲家の曲を聴いていると大きな忍耐力が必要だということです。そして聴き終わった時に慰め、優しさ、勇気などの感情が沸き上がることが無いのです。
新垣さんの交響曲が専門の教育を受けた方にとっては、陳腐な手法で書かれているということは分かるような気がします。しかし今そのCDを聴き直してみても、苦しみへの同情、理不尽さへの怒り、希望などの感情が沸いてきます。
作曲手法はたとえ古くても現在の日本に生きている作曲家の方にがたに、現在の日本人たちが持っている悩みや苦しみを、癒し励ます曲を作って欲しいと思っています。それはモーツァルトにもベートーベンにもできないことですから。
たとえば現存する小説家が書く小説の手法が、100年200年前と大きく変わっているわけではないと思います。
元来、人の脳は規則正しいリズムや調和するハーモニーに反応し安く造られているような気がします。新しい手法の開発に独創性を求めるのではなく、現代人にしかない感性や感情の中に独創性を求めて曲を作って頂きたいというのが私の願いです。
「一般大衆に受けて、かつ、現代音楽な曲を作って下さい」
なんてのが、現代音楽の作曲家へ依頼されたら・・・、とか、ふと考えてしまいました。
(依頼なんだから、ギャラ次第では、やってくれるのでしょうか・・・、とか。
ふふっ・・、 結構、意地が悪いですね)
演奏家の方に多い考え方だと思いますが、外部情報はむしろ少ないほどいいのではと思います。
ひとつは情報が増えればそれだけ
偽情報をつかまされる可能性が増えるため。今回のケースに繋がります。
もうひとつは無意識の領域が大きく関わる表現という行為で先入観や思い込みは有害ではということ。確かに勉強や研究である種の最もらしさは備わりますが、この最もらしさほどアートの命を削ぐものは無いと思うからです。
しかし表現はそんな単純なもので無いのも事実。矛盾するようですが最もらしさで塗り固めた演奏が期せず無意識のドアをくぐりとてもユニークな表現に行き着くこともあるのがアート。難しいものです。
ただ言えるのは外部の情報を得ることにもっと警戒すべきではないでしょうかという事。少なくとも「何も間違っていない」はどうかと思います。
コメントありがとうございます。
作曲家も(少なくとも現時点では)みなこの地球上に生きる人間なので、社会に生き、その人生の中で自身の得た情報をもとに(控えめに言っても影響を受けて)作曲することになります。
無意識の領域というのも、究極的な話、素朴な楽器すら珍しい太古に生きた人間と、考えられる限りの音の生成方法を持つシンセサイザーの音楽を聴き続けて育つ現代の人間ではまったく異なってきます。
個々人の人生経験も音楽体験もあまりに多種多様な時代において、出てきた音のみをしてその価値判断を行うというのは、理想論ではあるかもしれませんが、冷静な判断をすればナンセンスでしょう。
情報が多ければ多いほど、どの情報が誤っているかの判断もしやすくなるというのが私の考え方です。
>みなさま
コメントありがとうございます。
途中まで全レスしておりましたが、とても追いつかない感じになってしまったのでまとめてで失礼いたします。
このエントリで書いた私の見方もあくまでひとつの物語で、別の物語も既にたくさん生まれているように思います。その中でどのように、自身にとってもっとも音楽そのものの価値を歪めない形の物語を抽出できるか、というのが、逆説的ではありますが重要なのでは、と思います。
音楽家、特に作曲家の方などから「古い書法を使い、革新を目指していない以上、現代の音楽としては無価値」といった発言が複数されていますが、私にはそれも物語のひとつに聞こえます。ある意味、その作品の背景についてもっとも強く気にする聴き方です。
そうした作曲家の側からの聴き方(もしかすると、新垣氏ご本人に近い聴き方)も情報として理解した上で、なお価値ある音楽と判断される方がいたなら、それは作品にとって最高に幸せであろうと考える次第です。
皆様重ね重ねありがとうございました。
ゆい君の考えを見ました。君の最初のひらめきは、当たっていたのですが、N氏の記者会見で翻ったのは残念。S氏がたとえ、悪党でも、N氏がさらに悪党だと見抜いてほしかった。もし、ゆい君がS氏の立場になったら、好んでやらないと思う。では、N氏の立場だったら、好んでやると思う。面白いからです。うまくいけば、曲が認められるかもと。まあ、実際作曲は、ほとんど売れないことの方が多いけど。S氏と組むことで、チャンスがあります。たとえ、ベートーベン並の曲ができたとしても、売れる保証は、現代にはありません。S氏と組めばと、誰もが思うでしょう。この点において、S氏はN氏によるこの仕組み(悪巧み)を理解できなかったと思う。ピエロのように踊らされるしかないのです。人の名前で、自分が作曲者?と思うのが自然です。たまたま、売れてS氏に金が入り込んだだけです。もっと曲があれば、と思うのも自然です。さあ、金の入らなかったN氏は怒った。それで、N氏はチクッただけのことです。それも、S氏が障害者じゃないことも勝手に否定してしまって。さて、N氏が作った曲についてですが、ひどい作品です。いいと思うことは各自、自由です。ゆい君の最初のひらめきでよかったのです。ところで、日本の音楽大学を出ているほとんどの音楽家はクラシックを間違えて、演奏します。N氏もそうです。ゆい君の演奏は聞いたことはないけど、芸大を出ておられるから、多分間違って演奏しているだろうと推測されます。ショパンが古典派の音楽に悩み、交響曲やらピアノ協奏曲がたくさんできなかったことは誰も承知だと思う。リストもシューマンも。この理由は古典派の演奏方法が正しく伝わらなかったことからきます。芸大も同じ。ショパンが私に古典派の演奏方法を教えてと言ったなら、教えたと思う。まあ、知らなかった方が良かったかな。ショパンは独自のピアノ曲を作ったから。
人の名前で・・・これは、誰かが作った曲をむりやり変更しての意味です。 S氏は障害者手帳2級の所持者であることは確かです。N氏は、変なケチをつけて、S氏が障害者でないことを、記者会見で発表し、S氏を貶めました。テレビで言っていましたね。もともと、2級は、ぜんろうも、そして、ある程度の聴力もあっていいことになっています。マスメディアはぜんろうS氏と言って勝手に決めて、S氏を貶め、また、N氏も同様に、耳の聞こえるS氏と言って勝手に決めて、S氏を貶め、さらに、全国の2級の聴覚障害者を不安にし、全国の2級の人を貶めたことは許されまさん。S氏は、3級の人たちにも不安を与えました。障害者全員にも不安を与えました。記者会見の発言は、障害者全員に、お前たちは本当に障害者なのか?と言っているように聞こえます。思ってもいけないし、言ってもいけないことをN氏はしてしまいました。これで、ゆい君の考えが変わればうれしいです。
にせベートーベンなんて言葉をつかう人がいます。
誰のこと?N氏?S氏?多分、S氏のようです。
S氏を徹底的に悪人にしているようです。新垣氏作曲の交響曲を発表して、その曲の作曲が自分のものであったり、共同作品であったり、作曲家のつもり(演技)でいたり、いずれにしても、なんの問題もないと思います。作曲家は、なんでえらい人として見られるのか不思議。私自身は、作曲家の職業はごみ回収車の労働者と同じにみていますから、自称作曲家であろうと、偽であろうと、ああそうですかになります。ピアニストと言われても、ああそうですか。偽ピアニストと言われても、ああそうですかです。ごみ回収車のおにいさんが、バイトで不慣れであっても、偽なんていいません。本当の作曲であろうが、うその作曲であっても、どうでもいいことです。何をこだわるのか?運命の作曲者はベートーベンとなっていても、その名前は、音楽のテストで重要なだけで、それ以外はどうでもいいことなのです。にせ・・・は蔑称として使ってるようですが、正しく言うならば、S氏は、にせN氏と、表現するべきだ。N氏はゴーストライター、そうこの言葉は、偉そうに聞こえないから、いい表現である。
えーと、HYさん、一つだけ。
佐村河内側が記者会見を開いていない以上、当事者間で何があったのかは現状想像を膨らませることしか出来ないことは確かです。
ですが、想像するならするで、もう少し事実関係を正確に調べてから想像した方が宜しいかと思います。
たとえば、佐村河内氏が全聾というのは、弁護士を通じた本人の発表ですよ。
想像ではなく、厚労省も経公共団体の障害担当では常識の話です。
聴覚障害があるではないかで、聴覚障害検査を受ける場合、一般的に言う全聾たとえば、ヘレンケラーさんのような人に対しては検査はしないと思います。S氏は医者と向かって、必ず話し合っていますから、医者はもとから、S氏が聞こえていることは分かっています。それを前提に踏まえないと、ややこしくなります。多分、本人も結果として、ぜんろうときいていると思います。これは何の問題もありません。国が100デシベル程度の人をぜんろうと決めてしまったからです。もっともっと重いぜんろう者は付き添いが来ないと無理。まったく聞こえないぜんろう者は聴導犬が必要です。マスメディアは、彼をぜんろう者とも言っていいけど、言ってもいけないこともあるので、最初から、聴導犬が必要でない人に対しては、重度難聴者と表現すればよかったのです。S氏は、今でも自分をぜんろう者だと思っているのは、国の基準から言っているだけで、その意味では正解なのです。分かりやすく、簡単に言うと、国が間違えたのです。
仏作って魂入れずと言いますが、魂入れるのは工人ではなく聴き手なんですね。生まれた音楽が幸せなようで良かったです。素敵な考察ありがとうございます。
しだいに、私の言う通りにいっていますね。S氏は再検査に応じたようです。
マスメディアも聴覚障害担当医師や厚労省も市の障害担当者もおかしなことを公に、言っています。再度、聴力検査をして、判定が、現状通り、3級程度、健常者とどれが出ても、検査をするのは医者です。本人は素直に検査を受けるだけです。過去に、2級判定を知ったそのS氏に対して、良かったね、手当がもらえてなんていったかどうか、言わなかったと思う。かわいそうだねと思うのがまともな人間だと思う。それが今回の検査で、6級と判定された場合、それでも障害者であっても、障害者とは認めませんと言うのだろうか。では、ふつうの人並みの聴力があると判定された場合、過去の検査はウソだったということなのか。誰がウソをやったかです。本人?医者?今回の再検査は興味深い。
本人に対して、罰するのか、認定医も罰するのか。政府も、検査前に、1人のあわれな障害者を健常者とみなしたことは許されるかどうか。健常者だと分かった場合は、よかったねと言うのがまともな人間ではないのか。S氏があんな風貌でなかったら、もっと見方が違っていたと思う。障害者は正直です。悪いこともします。でも、それをもって、苛めてはいけません。再検査の結果、周りの対応が見ものです。
今回の再検査は、N氏がたとえ、健常者と判定されても、あるいは、障がい者と再認定されても、
実はのところ、認定側に非があることの証明になり、やりたくはなかったと思います。今回の検査は別の検査でやるようですから、もう、以前の方法は否定してしまっています。受ける側からするとズルイ。両方やるべきですね。それと、市との対話で、本人は手話ができるようです。
S氏が手話をすると言うことは、もう、その人は、聴覚障害者だとわかります。昔、私は、手話を少し覚えようとしたことがありましたが、必要度がないので、あきらめました。手話のことだけでも、彼は聴覚障害者だといえます。市との会話でつかわれた手話が正しければです。
検査をする側は、再検査をやりたいか、やりたくないか、どちらだと思いますか?答えはやりたくないのです。意外でしょう。大臣、市長の無知なる発言に、市の担当職員は、今後、すべての検査に及ぶことになるかと、その危惧をもったと想像されます。S氏の結果以降、全国中で再検査がすすめられ、認定する側に、たとえば認定医や、国の指定する認定員側に問題有りになるかもしれません。あった場合は、認定医の取り消し、医師の剥奪まで及びます。そうすると、認定医のなりてがいなくなります。認定する側は、その理由で再検査はやりたくないのです。従来は,検査する側に絶対問題がないと見られていたのが、実は、認定する側に問題があったとする見方に変わる始まりが,今回の再検査になります。
介護度認定調査員のことをご存知ですか。介護度1から介護度5までの検査(質問)をする人のことです。介護度がいくつかの最終決定は、審査会の場で決まります。ですが、調査員の検査(質問)で、決まると思ってください。調査員の質問で、その答えに応じて点数が決まるようになっています。その点数の合計の多いほど、重くなります。点数は、誰がやっても出すことができます。で、審査会でも調査員の出した結果がそのまま尊重されることになります。この調査員の質問が正しければいいのですが、ひどいものです。ゆとりの時代に育ったせいか、国の質問内容が理解できないため、介助をしてほしい人にとっては難問となります。たくさんの難問があります。調査員の出した総点数に応じての介護度のため、正確な質問が多いほど、介護度が重くなってくるといってもいいと思います。簡単に言うと、調査員の質問によって、介護度3になり、4になり5にもなると言うことです。また、介護度4で出たものを、別の人に検査してもらったら、介護度5になることもあるのです。これは調査員が悪いことの証明になります。今も、全国にいる認定調査員は、自分で言う質問ですら、理解していません。検査(試験)なんていい加減なものと思ってください。一つ難問を出しましょう。あなたは、食べ物をのみこむことができますか?できませんか?のどちらを答えますか。介助されたいことで答えてください。のみこみができたら、正常者に見られるし。のみ込みができなかったら、食べていないことで死んでしまうから、そんなことはないし。と考えます。答えはわかりますか?
障害者差別解消法と言うのが成立しているのを知っていますか?去年、成立し、28年施行になります。内容を知っていますか?その中に、合理的な対応について、合理的配慮を行わないこと と有り、その下の説明では、合理的配慮をしないと差別になりますと書かれてあります。
この文はおかしいと思いました。この法の言いたいことを素直に推量するならば、合理的配慮を行うが正しいのではないか。合理的配慮の不提供なんて、分かりますか?多分、書いている本人も分からないかも。私がその法に代わって、説明するならば、障害者に対しては、その障がいを理解して、その人に合う適切な対応をすべきだと言っていると思います。具体例が多いほど、健常者は障害者に対してどうすべきが分かりますが、今のところ無しです。今から、健常者は障害者に対しての思いやりを実践すべきと思います。
横浜市が再検査で、オージオメーター以外でやった場合は、市の担当職員は懲戒処分を受けることになります。私は、懲戒免職がいいと思います。決まっている検査器具を勝手には変えられません。
身体障碍が重いか軽いかは、部位ごとで等級を決め、全部合わせて、身体の障がいが、重いかどうかを決めます。手帳に書かれてある身体障害1級(重度)が一番重いのです。身体障害2級は中度障がいだと思ってください。身体障害3級は軽度とね。S氏は身体の中度障害者になります。分かりますか?以上のことは、マスメディアも医師も障害者担当も知りません。彼らに教えてあげて。身体障害3級を軽度障がいとみなすと、手当の関連がみえてきます。軽度者にはあまり恩恵がないからです。聴覚障害2級だけなら、中度の障がい者となりますが、それと視力障害2級(中度)も持っていれば、(中度+中度)で身体障害1級(重度)になり、2つを合わせることで、重度の身体障碍者になります。この仕組みが分かりましたか?手当は、身体の重度障害と身体の中度障がいに与えられ、身体の軽度者には全くありません。ただし、身体障碍3級と療育手帳の両方を持っていれば、手当はあります。手当は、1級の重度者で年に30万程度です。子供手当と同じようなものとして見ていいのです。障がい者手当が、生活費になると思う人がいるようです。間違った考えと分かりますね。身体の軽度障害者(3級以下)にはほとんど、国からの支援は無いと思って下さい。さて、聴覚障害で1級のない理由はわかりますか?聴覚障害1級をつくると、即、身体障碍1級の重度になってしまいます。聴覚の重い人を重度判定をしないよう、1級をなくして、2級相当にしてしまったのです。まったく聞こえない人(ぜんろう)も、中度障がい者扱いにしただけのことです。国の基準だからしょうがないのです。ぜんろう者は聴覚障碍1級にし、即、身体障碍1級にすれば、問題はなかったことです。これで分かりましたか?聴覚障害2級のS氏は身体障害1級の重い人よりも軽いので、手当が少ないはずですよ。聴覚障害3級には手当はありません。
知的障碍者には、療育手帳に障害の程度が書かれてあります。Aは重度、Bは中度、Cは軽度です。知能指数100は生活年齢といっしょの知的な能力を持っていることが分かります。75以下が軽度です。中学生2年生の年齢で、軽度の子の精神年齢は小学3年4年程度の知的学力となります。軽度の子には国の支援はあまりありません。先ほど手当額があいまいな理由は都道府県によって違うからです。軽度は月に2500円で重度は月に4500円です。重度の子は身体障碍を持つ場合もありますから、先ほどの額も入ることになります。しかし、軽度者にはそれだけです。一生それだけです。それでも手当はうらやましいですか?もっと、多くすべきと思いますか?
視覚障害は視力検査を用います。片方の目で5メートル先から、一番上がやっと見えたら、0.1となります。知っていますね。1メートル先ならば0.1×1÷5で0.02となります。25センチの距離からならば、視力は0.1×0.25÷5で0.005となります。両眼とも視力0.005の時は合わせて、0.01になります。合計視力が0.01ならば、これであなたは視覚障害者1級になります。一度試してみて。25センチのところから、一番上の文字がやっと見えた場合は、重度の視覚障害者になります。多分、大臣も障害担当者は知らないと思います。
国は、何をしようとしているのでしょうか?全盲、全聾、知的に考えることができない人を、調査・検査するつもりなのか?一番の障害者である死人・死体を、検査するつもりなのか?全く意味がないことをしようとしている。障害者は、聞こえる人、見えない人、動けない人の中で、この程度は障害者として、見てあげようと言う基準を国で決めておいて、これはありえないなどと、勝手なことを、国は主張しています。障がい用の検査は聞こえる検査です。見える検査です。動かす検査です。もともと、耳の無い人、聴こえない人には、検査はできないのです。死体を脳波ではかってごらんなさい。うんともすんと言いませんから。
聴覚障害の一番重いと言う判定基準は、理屈上、101デシベル以上の音が聞こえたなら、聴覚障害2級となります。まったく聞こえない人も、聴覚障害2級になります。この説明のしかたの方が分かりやすかったかも。100デシベルは聞こえないことになりますから、基準には合うのです。視覚障害も、見えることが前提であることも分かりますね。
聞きます。知能検査のIQ75の人は障害者・児ですか健常者・児ですか?また、IQ76の人は障害者・児ですか健常者・児ですか?どちらですか?よく知っている人は答えられますよ。
答えは、75は障害者で、76は健常者です。文句を言わないでください。国の基準ですから。では、そのほかでも、考えてみましょう。視覚障害は1メートル先の1番上の0.1 のところの文字が片方で見えて、もう片方が5メートル先の1番上の文字見えた場合には視覚障害者なります。0.2が見えたらもう健常者になります。聴力障害は、両方とも耳が、40センチのところからの会話が聞こえない人が障害者です。39センチのところで会話が聞こえた人は健常者になります。6級相当になります。4級の基準にあてはめると、6級は耳に近づけて、普通の会話が分かる程度です。4級は耳元のふつうの会話が理解できる程度です。3級は耳元の大声が理解できる程度です。
2級は分かりやすい表現はできませんが、耳元から1センチでも離れた大声が聞こえるのが2級になるのではないか。国の基準にそうと・・・・。
訂正 2級は耳元の大声も理解できない。耳元で、もっともっと大声を出せば、聞こえる程度です。大声の大きさの程度が分かれば、それよりも
大きな声が聞こえたならば2級となります。
国の基準を国の担当者(大臣)が理解していなかったため、世間を騒がせてしまいました。耳元の大声が理解できないと言う文字だけみて、勝手に聞こえない等級にしてしまいました。耳元の声の比較→ふつうの声、大声、もっともっと大きい声があることの発想がなかったようです。私が最初から、2級は聞こえる人だよと言う根拠は国の基準からも分かるということです。誤解しないように、全く聞こえない人もいますよ。長いこと、説明しました。これで、障害者差別解消法もきちんと理解できたと思います。え?国の方が理解してなかったって.。
もっともっと分かりやすくしました。知的障害の判定基準から、IQ75は障害者です。IQ76は健常者です。聴覚障害の判定基準から、耳から0から39センチ離れた距離までの人の会話が聞こえ、さらに40センチ以上の距離の人の会話が聞こえない人が障害者です。距離に関係なく、人の会話が聞こえた人は健常者です。視覚障害は上の文章にあります。
では、次のことを考えよう。ある時は障害者となり、ある時は健常者となり、また、障害者になることがあるのか?と聞かれた場合、正しい答えは何でしょうか。もう、賢い人は分かりますね。大臣さんは分からないと思います。
答えは試験をやるごと、いつも変わります。ある時はIQ76、ある時はIQ75に。免許証の時の試験は、たまたま90点取れて発行されます。次にもう一回やったら、89点で運転不許可になります。最初の合格で、運転可能として、一生続くのです。誰も文句を言わないでしょう。ただ、知能は年齢が多くなるほど、分母が大きくなるので、IQがどんどん下がることになります。さあ、みんな、軽度から中度になっては大変です。その理由で、最初の軽度のままで続くのです。厚労省はその仕組みを変えようとしています。国としては、やっては、いけないことをやろうとしています。やるなら、やりなさい。くちゃくちゃになりますから。S氏にかたを持つわけではありません。国の基準がよく分かってれば、調べなくても、S氏は3級程度以上であることが誰でも分かるはずです。読み違えがすべての原因です。国のレベルを上げるしかありません。
森下様
新聞紙面上、高橋源一郎さんのコラムにて記事が紹介されていたのを少し前に読み、検索して本WEBページの原文を読みました。森下さんの意見は決して後知恵でなく、客観性のある現実的で生の実感が書いてあると思いました。今後も専門家の技量に裏付けされた色々な活動を続けて下さい。
私は科学研究の分野で仕事をしています。技術の高度化、新しいものの追求、又は教育といった、業界内部での評価軸が確立された活動以外に、非専門家たちに受け入れられなおかつ物質的ないし精神的報酬を得られる活動を、芸術分野ではどのように行われているのかに興味を抱き、そういう観点では、ピアニート公爵の活動は一つの成功例なんだろうと想像します(私は当該分野に興味がなく。。実際に聴いていないけど。ごめんなさい。)
音楽ビジネスについて悩み自分の言葉で語っている方の意見によると、好き嫌いプラスアルファではない、多様性、賛否を含む健全な評論が求められているようです。裾野が広がることで(より文化が成熟している国に活動拠点を移し、例えば西欧の価値観に合わせきって演じ続ける狭き道に突き進む以外にも)日本で活動を続け易くなる音楽家の数が増えるかもしれないと勝手に思いました。ではお元気で。
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3966.html
S氏の謝罪会見がありました。過去の認定医の検査は問題のないことが市から指摘あったことと、今回も市よりの紹介で再検査で検査自体は問題なしと。で、あるならば、S氏は聴覚についてはなんの問題もないことになります。それぞれの結果に従っただけです。私は、今回の検査も最初の検査も問題があったのではないかと思います。今回の検査が、国に認められていない検査をやっていたなら、大問題です。ものさしが違うからです。それと、最初の検査は、医師が適当にやったことになると思います。これも大問題です。結局は、市には責任が及ばないようにするかもしれませんね。
S氏は再度オージオメーターでやれば、手帳交付となると思います。違う検査でやれば、結果が違うことはやる前から分かっています。ものさし基準が違うのです。そうはいっても、今回の結果でも、障害者であることは、疑いもないことになります。記者会見では、S氏が嘘を演じているかのような、記者の質問は、質問する資格さえないと思います。障害者に対する配慮はあの場では必要だと思います。みなさんは、S氏が障害者であることを前提で、ゴーストライター事件を再考してみてください。
TBSのサンデイジャポンやアッコにお任せでは、S氏を今回の記者会見で、嘘つき野郎に見立て、テレビを通して、からかったり、因縁をつけたりして、言いたい放題。S氏が聴覚障碍者だと分かってても、今後もいじめが続けられるでしょう。こういう時こそ、障害者いじめをした人には罰則をつけるべきだと思います。まずは、福祉施設での無償奉仕かな。
つぶれそうな私学で、しがない音楽科の教員をしています。S氏のことは騒動が起きてから初めて知りました。人はとかく障害を持っている人が頑張っている姿をみると応援したくなります。辻井伸行さんがコンクールで優勝したときの報道の過熱ぶりは辻井さんが障害を持っていることと無関係ではないと思います。辻井さんが健常者であったなら、あそこまで過熱しなかったと思います。普段、クラシック音楽に冷淡なマスコミが、なぜあそこまで過熱するのかと違和感を感じる一方、そういった人の優しさにつけこんだS氏のやり口は卑劣であると言わざるを得ません。当局も詐欺罪の立件に動いて欲しいのですが、こういったケースには無関心ですからまず動かないでしょうね。
S氏が聴覚障碍者かどうかは、横浜市の記者会見での発言は間違いで、正解は、S氏は聴覚障碍者です。手帳の方の検査は、聴力検査ですから、障がいを特定するものではありません。ただ、手帳交付に当てはまらなかっただけです。本当に聴覚に障害があると言う判定は難聴そのもののことを言います。聴力検査でも難聴と判断されることもありますが、正式にはその判断はないのです。一番分かりやすい表現は、医師の診断結果、感応性難聴で100パーセント聴覚障碍者と認定されることになります。逆に言うならなば、手帳交付の検査では、障がい部位の認定は特定されませんから、手帳交付をもって、障害者かどうかの判定にはならないと言った方が分かりやすいかと思います。まあ、手帳を取得した人を、障害者と一方的にきめただけのことであるので、正しい表現ではないことを知っておきましょう。原点に戻りましょう。S氏は聴覚障害者であることを前提に。
文字の訂正。感応性→感音性難聴が聴覚障碍者を認定する医学用語です。
厚労省も横浜市もズルい。もともと、聴覚障害の検査の見直しをするのではなかったのではないか?多分、S氏には感音性難聴なんての結果は出ないだろうと思っていたようです。大昔から、手帳交付の検査は、厚労省指定の検査と医師側が作った検査とは対立していました。簡単に言うと、厚労省は医師側の検査を認めていなかったのです。厚労大臣は2月に見直しを発表しました。
医師側の検査が妥当と思ったのでしょう。本当はそれでよかったのです。しかし、再検査では、従来の検査方法でおさめてしまいました。これはいけません。中度の感音性難聴は、2級相当で身体障害者手帳の交付を認めるべきです。これが本当の見直しになります。これですべての実態が分かりましたね。聞こえるか聞こえないなんて、問題にすることではないのです。障がいがあるかないかです。
N氏はマスメディアにチクルことをしました。男らしくありません。障害者苛めをする人です。それにめげずに、今後もS氏は、障がい者であって、かつ、作曲家でいいと思います。N氏を解雇して、新しい人をたくさん雇えばいいのです。
私の立場はS氏を擁護するものではありません。過去のS氏の作曲(ベイスはN氏)は、好きではありません。合わないのです。世の中に、自分にとって嫌いな作曲がたくさん出ても、それはそれでいいと思います。多分、誰かが好きになっているので、売れても構わないです。法隆寺は正徳太子がたてたのか、大工さんなのか、の問いとおなじようなことが、今回の事件になっています。一応、聖徳太子でいいのではないのでしょうか。もし、聖徳太子は作れと言っただけで、製作者になれるのと、私は言われたら、すべての歴史上の行為は代表者になっているため、それでいいじゃないのとしか、言えません。今回の事件もそれでいいじゃないのが正しい答えかと思います。
障がい者と会話する場合は、障がい者と同等に立たないと成立しません。S氏の記者会見では、記者全員がヘッドフォンつけるべきでした。つけることによって、聞こえる聞こえないの意味が分かってくると思います。ヘッドフォンをつけた記者がすいません、聞き取れなかったので、もう一度、おおきい声で言ってくださいとなったと思います。1年間ヘッドフォンつけなければならない場合はおそらく記者は手話も勉強するでしょう。
記者会見では記者は手話で話すことの方が、障がい者にとっては、ありがたいことなのです。T大学の学生さんは音楽だけ勉強するのではなく、福祉をもっと勉強すべきと思います。教授もですよ。